東日本大震災から6年・あの時の私とあれからの私「花火マニア」誕生まで(Vol.1)

ここだけの話

 

先日2017年3月11日(土)、未曾有の大災害「東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)」から丸6年が経ち、各地で犠牲者への追悼セレモニーが行われました。

私自身も心の中で犠牲者への祈りを捧げ、また未だに復興真っ只中の故郷・福島を想い、改めて「あの時(2011.3.11)」を振り返ってみました。

あの時の私は…あれからの私は…私に何ができたのか…失った物・得たもの。

今回はVol.1、地震発生当日の様子・思い・行動を記事にしてみます。少し長いですがお付き合いくださいませm(_ _)m

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2011.3.11の記憶 東日本大震災と花火マニア

以下、時系列にて簡単にまとめてみます。6年前の事なので記憶が曖昧な部分もありますがご容赦を…

と、その前に…私は1981年福島県二本松市で生まれ、21歳の時に上京してきました。なぜLOVE福島なのか、それは福島出身だからです。それをはじめに伝えておきますね。

 

2011.3.11の記憶 怪しい雲に不安を抱きつつ

9:00ごろ いつも通り会社に出勤。午前から営業先に行く予定があり、準備を整え会社の喫煙所にて出発前の煙草を吸っていました。

「雲行きが怪しいな、雨降るかな」

黒く垂れ込めた雲を眺めながら、そんな思いで煙草を吸っていました。いま思えば「あの雲が地震発生の前触れ」だったのかもしれません。ちょっと薄気味悪い雲だった記憶があります。

 

13:45ごろ 1件目の商談を終えJR新宿駅へ移動。ちょうど乗り換えのタイミングなので、新宿駅近くで少し遅めのランチタイム。その時も怪しげな空に「あーやっぱり雨降りそう」そう思い、雨が降らない内に次のアポ先へ向かいたいと、かき込むように急いでお昼ごはんを食べました。

 

14:20ごろ ビックカメラ新宿東口へ移動。化粧室でネクタイを締め直し、次のアポ先・荻窪駅へ向かいます。新宿~荻窪までは電車で約10分ちょっと。15:00過ぎに来て欲しい、との顧客の要望でしたから「14:40ぐらいの電車に乗れば充分間に合うな」そう思い、改札へ向かいます。

 

14:40ごろ 東京メトロ丸ノ内線新宿駅。荻窪行きの丸ノ内線がやってきましたので、予定通り乗車。車内は座れる程度の混雑具合。久しぶりにスーツ&革靴でしたから、座っていくことにしました。

ここで一つ、今でも疑問な事があります。新宿~荻窪まではJRを使ったほうが安いし早いのに、なぜメトロに乗車したのか…

 

2011.3.11の記憶 東北地方太平洋沖地震発生

東北地方太平洋沖地震発生時の震度マップ

14:46 プーッ!プーッ!プーッ!プーッ!聞きなれない警報音が車内に響き渡りました。あちこちから聞こえてきました。「なんだ?この音は??」と思い、スーツのポケットから音の主(携帯電話)を取り出し、画面を見て唖然としました。

宮城県沖で地震 強い揺れに警戒

「おい?嘘だろ??」隣に座っているサラリーマンが寝ていたので、肩をポンポンと叩きました。

「東北で強い地震だそうですよ」

「あーここ東京だし、地下だから大丈夫ですよ」

そんな会話をした記憶があります。私の中では、宮城県沖・強い地震、この2つのキーワードで真っ先に思ったことは「故郷・福島(二本松)は大丈夫か?」このことだけでした。隣のサラリーマンと会話が噛み合わないのは当然です。私は故郷を案じ声をかけた、隣のサラリーマンはここは東京!…いや、隣のサラリーマンも東北に家族・親族がいたかもしれませんが…

 

14:47ごろ 緊急地震速報後、しばらくして揺れだしました。車内アナウンスでも「東北地方で地震発生のため只今運転を見合わせております」こんなアナウンスだったように記憶しています。

電車の縦揺れって想像つきますか?運行中にカーブや線路変更で横に揺れるのは誰もがご存知かと思いますが、縦揺れ、前後方向に揺れるということです。止まっている電車が前方後方にユッサユッサと揺れだしました。

「なに?東北で地震ってのは誤報で、実は東京で地震なんじゃ??」

大きな揺れに驚き、車内を飛び出しました。ホームの電光掲示板もユッサユッサと揺れています。そのまま呆然としている人・慌てて電話している人・地上に向かって逃げる人…私のとった行動は「地上へ」でした。

「地下だから崩落するんじゃないか」

そんな恐怖感に押し潰されそうになりながら、急いで地上へ向かいました。とにかく上へ、とにかく明るい空の見える場所へ…

 

2011.3.11の記憶 必死に地上へ脱出

15:10ごろ 「会社(自宅)のある西船橋に帰りたい」との思いで、総武線のホームへ向かいました。ようやく明るい場所に出た安堵感と、いまなにが起こっているのかという恐怖感が入り混じっていました。

「関東で地震なのか?東北で地震なのか?どっちだ??」

いまだにそれが分からずホームを歩いていると、新宿アルタビジョンが視界に入りました。それを見て愕然としました。宮城北部・震度7 大津波警報発令。

「おい、東北震源の地震で東京もあんなに揺れてたの!?」

てっきり東京直下(関東)での地震で、東北は誤報だと勝手に決めつけていましたから、一瞬頭が真っ白になりました。何が起こっているんだ!?と。

 

2011.3.11の記憶 妹への電話

すぐに我に返り、とにかく故郷が心配で心配で。妹がちょうど1週間前に長女を出産したばかりでしたから、それもまた心配。まだ病院に入院しているはずなのですぐに電話してみました。何度かコールした後、妹が電話に出ました。

「おい!大丈夫か??」

「なんとか大丈夫…ツーッ、ツーッ…」

すぐに電話は切れてしまいました。その後すぐにかけ直しましたが、コールすらなりません。実家の固定電話も同じ、コールすらなりません。会社にも電話しましたがやっぱり不通、当時の彼女(いまは妻になりましたが)に電話しましたが、やはり不通。電話は全面不通でした。

 

2011.3.11の記憶 西船橋へ「歩いて帰ろう」

15:15ごろ グラグラグラグラッ!突然ホームが揺れだしました。また大きな地震が来ました。電光掲示板も激しく揺れています。思わずしゃがみ込み、揺れがおさまるのを待ちました。もう何がなんだかわからない状態、私も軽いパニックになっていました。揺れがおさまり、ホームにいた駅員さんに声をかけました。

「船橋まで行きたいのですが、電車来ますよね?」

「いま安全確認を行っていますが、線路が崩落したという情報もあるので…」

電車は来ないかもしれない。どうする??地下鉄なら動いているかもしれない。また地下に戻ることにしました。

 

15:30ごろ 新宿駅構内は人混みで溢れ返っていました。駅員さんが拡声器で呼びかけています。

「JRもメトロも運行再開の目処は立っていません」

もう決心しました「船橋まで歩いて帰ろう」と。電話も使えない、電車も来ない。とにかく自宅に帰りたいとの思いから、歩いて帰るぞ!と。

 

2011.3.11の記憶 徒歩で新宿から西船橋へ

15:40ごろ スマートフォンで新宿~西船橋のルートを検索しました。所要時間を見てびっくり!5時間以上も歩かねばなりません。しかし電車は動かない、道路状況がわからないのにタクシーに乗るのも無謀、何よりも故郷が心配だし「一体この世はどうなっているんだ」という不安が一気に押し寄せてきており、すでに私の足は西船橋へ向けて歩いていました。

低く黒く垂れ込める雲は相変わらず空を覆い尽くしています。本当に薄気味悪い雲でした。みなさんダウンバーストってご存知ですか?竜巻の原因ともなる強い下降気流ですが、あの時の雲とまさに同じ。低く黒い雲が地面に達しそうな、そんな空でした。

「あー朝会社の喫煙所で見た雲と同じだな」

そんなことをぼんやり考えながらひたすら歩きました。あられ?雹?のようなものも降ってきました。巨大地震が発生した後、薄気味悪い雲から雹が激しく降り注ぐ…世紀末感しかありませんでした。

 

途中 日本武道館前を通ったのですが、ものすごい数の消防車・救急車が集結していました。ざっと30台以上はあったんじゃないかと思います。どうやら日本武道館の天井が崩落し多数のけが人が出たようです。被害者の無事を祈りながら、ひたすら西船橋へ向けて歩きました。

時間が経つにつれ、不安もより一層大きくなってきます。同じ方向に歩く人・自分とは逆方向に歩く人。みんなそれぞれの思いで・それぞれの不安を抱えながら黙々と歩いています。そこに笑顔は一つもありませんでした。

 

2011.3.11の記憶 飯田橋の自転車屋さん

革靴が足を痛めつけます。つま先・かかと・足の裏…もう足全体が痛く、足を引きずるように歩きました。

「痛くても歩かなきゃ」

もうこの思いしかありませんでした。相変わらず実家には電話は繋がりません、コールすらなりません。

「福島はどうなっているのか?両親は生きているか?」

もう「無事か?」という思いでは無いんですね「生きているか?」という考えに変わっていました。もしかすると生き埋めになって死んでいるんじゃないか…こんな考えに変わっていました。飯田橋駅付近を歩いてる途中、自転車屋さんを見つけました。あ!って思ったんですよ。

「そうだ、自転車を買ってそれに乗って帰ろう」

迷わず自転車屋さんへ入りましたが、店内へ入りその異様な光景に驚きました。自転車屋さんなのに、ほとんど自転車が置いていないのです。

「ママチャリが欲しいんですけどありますか?」

「完売です、あるのはこちらの自転車のみです」

店員さんにママチャリが欲しい旨を伝えました。すると即答で「完売です」と。あるのはこちらの高級自転車(20万ほど)のみ。

皆さん考えることは同じですね。地震発生直後、電車が動かないと知った人が殺到し、自転車を購入されたようです。私がその自転車屋さんに行ったのは、地震発生後おそらく2時間ほど経過していたと思います。自転車は諦め、再度西船橋目指して歩きだしました。

 

2011.3.11の記憶 先輩との合流

夕刻 電話は相変わらず不通でしたが、ネット&メールは幸い使えたんですね。何度も送信エラーは出ましたがメールはなんとか大丈夫そう。届いているか見ているかは分かりませんが、家族に何度もメールを送りながら歩きました。

そんなやり取りの中、社用携帯のメールに「●●無事です」とか「●●と一緒にいます」とか(だったような)そんな安否確認メールが届くようになりました(たぶん地震発生直後からそういうやり取りは行われていました)。

そのメールの中に半蔵門でアポイントのあった先輩が、同じように西船橋を目指して歩いていることを知りました。

「あー助かった」

別に遭難したり事件に巻き込まれている訳でもないのに、先輩が近くにおり同じように歩いていることを知り、率直に「助かった」という安堵感に満たされました。こういう時って、知り合い(家族・恋人・友達)が近くにいるだけで安心するんですよね。

 すぐに先輩にコンタクトを取り、錦糸町で待ち合わせることにしました。先輩は先に到着しており、飲食店で待っていてくれました。

椅子に座った瞬間、どっと疲れが押し寄せ、岩を背負ったかのように体の重みを感じました。そして先輩の顔を見た瞬間、涙がこぼれそうになりました。それは悲しさの涙ではなく、安心感から来る涙。

Y・Fさん、アナタがいたから俺は西船橋まで歩けた。アナタがいなかったら途中で倒れていたはず。ありがとう…

不安に押しつぶされそうになりながらも、足の痛みを我慢しひたすら歩き続け、ようやく知り合い(先輩)に会った。この安心感は計り知れません。どんな会話をしたかは覚えておりませんが、この安心感は今でも鮮明に覚えております。

 

2011.3.11の記憶 ようやく西船橋到着

飲食店のテレビでは、何度も地震当時の映像と巨大な津波が街を飲み込む映像が繰り返し流れていました。

その中で「福島第一原発・電源喪失」のニュースも併せて報道されていました。電源喪失の影響で、核燃料が冷却できない状態だということです。福島第一原発から実家までは約50kmの距離にあります。

「福島第一原発が爆発するかも、そうなったら故郷はどうなるんだろう…」

不安が100倍になったのは言うまでもありません。でも今はとにかく家に帰らなきゃ、その一心で先輩と西船橋へ向けてあるき出しました。

先輩も同じようにスーツに革靴。同じように足が痛かったはず。にも関わらず、弱音を吐く私を励ましてくれ、先導して歩いてくれました。頼もしい存在です。そんな先輩の後ろ姿を追いかけるようにひたすら歩きました。

23:00すぎ 小岩を通り妙典を通り、やっと西船橋に到着したのは23:00を回っていたと思います。地震発生から8時間以上がたっていました。もう気力のみで西船橋に帰ってきました。見慣れた街並みに安堵感を覚えました。

「やっと着いた、オレは生きてるぞ」

何となくそんな意味不明なことを思った記憶があります。やってやったぞ!という達成感みたいな…自宅に入るとそのまま玄関に倒れ込みました。

 

2011.3.11の記憶 東日本大震災から6年・あの時の私とあれからの私「花火マニア」誕生まで(Vol.1) まとめ

自宅に着いてからはすぐにテレビを付け、地震のニュースを食い入るように見ました。その後家族とも連絡が取れ、無事であることが確認できました。後に彼女も到着し、ひとまず束の間の安心感に満たされました。

連日報道される地震のニュース・復旧が難航する鉄道各社・危険な福島第一原発の状態・電力不足による計画停電etc

  • 「いつになったら前の生活に戻れるのか?もしかするともう前の生活に戻れないんじゃないか??」
  • 「もしかすると、オレは故郷に帰らなければならないかも知れない」
  • 「家族・親戚が福島で辛い思いをしているのに、オレだけこっち(千葉)にいていいのか」

いろんな思いが頭を過りました。散々悩みました。福島第一原発の状態が日々悪化する中で「死にたい」とも思いました(東北の人はもっと辛い思いをしているのに、簡単に死にたいなんて言って申し訳ございません)。

そんな魂が抜けきった、抜け殻らのような私。そんな私を180度方向転換させるような、運命的な出会いが訪れようとは、この時は全く思いもしませんでした。

 

一瞬の煌めきに永遠の感動を追い求めて…人々の未来を照らす希望の光「花火」

花火マニア・安斎幸裕

 

東日本大震災から6年・あの時の私とあれからの私「花火マニア」誕生まで(Vol.2)へ続く…

 

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